積極的にメモっていく姿勢

題名詐欺。更新頻度の低さが売り。

一人の話ばかりを聞いていてはいけない

見学旅行帰着翌日に何を始めたんだと思っていたが,
クリスマスの日も近いので,@materialofmouse 氏が開設したアドベントカレンダーの盛況ぶりを見にいった.
(12/23 22:00 現在)

adventar.org

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こんな雑なタイトルのアドベントカレンダーでも,
記事を投稿してくれる人がこんなにいるなんて,
人間の善意に付け込んだ氏の勝利を感じますね.
 
......?

 
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ダメです
 
これでは情けない現実が永遠に露呈したままになってしまいます.
 
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ハイーーーーーーーーーーーーーーーーOKです.
 
......今日は 12/04(月) です.
皆銘々御存知の通り,椎名林檎女史の御生誕日より9日目です.
本当に無条件にいい日ですね.

www.youtube.com

 
さて,

私を取り巻く若き力へ

学生アドベントカレンダーの癖に学生ではない自分が,
何の記事を書けるのだろうかと考えなければならなくなった.
 
熟考した結果,これから世界を変えられる力を持った皆様宛に,
私の人生の反省文を提出することが相応しかろうと判断した.
 
しかし,

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何一つとして当てはまらないのに,堂々と登録しているところに,
自分の傲慢さが非常に大きなものであることを,再認識するまでである.
 
これは生きる技術といったところだろうか.いいのかそれで.
(これでいいのだ)
 
1991年 平成3年に命が発生し,今まで26年と7カ月程が経過し,
少ないものの幾許かの経験を積むことができた自分の反省文である.
 
記事を書く前からタイトルを決めてかかったが,
この一文に言いたいことが大体詰まっている.
時間がない人はタイトルを音読して深い感銘を受けてほしい.
(がんばれ読み手)

多くの師を持つこと

自分の人生を振り返ってみて,どうだろうか.
プログラミングを教えてくれているエンジニア,
はんだ付けを見てくれる実習の先生,
野球を見てくださる地域のおじさん......
所謂,一芸に秀でた大人の顔が思い浮かぶのではないだろうか.
 
では,
おりがみを教えてくれた近所のおばさん,
縫物が異常に上手い親戚のおにいさん,
自転車の乗り方を教えてくれたおとうさん......
これらは師とは呼べないのだろうか.
 
何にせよ,生まれながらにして人は自ら何かを見つけ出し,
実行に移していく事よりも,教わって手を動かし,覚えて身につけていくことの方が,
圧倒的に多い生き方をして「こども」と呼ばれる時代を過ごす.
 
年を重ねていき,いずれ社会人として世界の役割の一つを担うとき,
教わるばかりではなく,自分の力で世界を拓いていくことを平然と求められる.
 
とはいえ,何も教わってはいけないわけではないし,
むしろ,自分で何かに取り組んでいくにあたり,自分ひとりで解決するよりも,
多くの経験をしてきた人間と対話を重ねながら進む方が,
効率的で刺激的な生活が待っている.
 
この多くの経験をしてきた人間こそが「師」であり,
幼き日々に刺激を与えてくれた,大人や友人たちもこれに含まれる.
 
ここで一つ注意しておきたいのは,多くの経験してきた人間が,
必ずしも自分よりも年上だとは限らないというところである.
仮に3歳だとしても,自分とは比べものにならない興味深い経験を,
日常的に重ねているかもしれない.
 
何も教わる相手は明らかにすごそうな人に限らない.
 
これを多く持つことが,早く,速く多くの経験を積むことのきっかけとなり,
人間の厚さを膨らませ,さらに広い経験を持った人々や新しい事柄に触れる,
最高の方法だと,今まで生きてきた中で感じている.

一人のみの素晴らしい師を持つ危険性

意外にも思われるかもしれないが,私はこれは非常に危険なことと考えている.
とても素晴らしい,何でも知っている,人間としても優れている師が一人いれば,
多くの師を持つよりも,簡単ではないかと思うだろう.
 
そもそも,探すのが難しいという部分は置いておいて,
どこをとっても素晴らしい師を見つけ,ついていくことに決めたとしよう.
こういった思考実験を重ねることが重要だ.
 
プログラミングについて尋ねても,電気工事について尋ねても,
デザイン,バスケットボール,野菜...... 何でもOKな便利な師である.
どんなことを聞いても返ってくるし,どんなことでも指導してくれる.
 
その師と共に過ごす時間が長くなれば,長くなるほど,
より多くの知識や技術を手に入れて,どんどん進化していける.
最高の環境ではないか......
 
きっと出会って最初の数日,数カ月,数年はいいのかもしれない.
これは,その師の人柄にも左右されよう.
 
もしかすると,稀に長らくそういった状況に問題がないパターンも,
あるのかもしれないので断定はできないが,そう長くは続かないだろう.

問題点は客観性と優越感

話を少し違う視点から考えてみると,理解の助けになる.
 
自分ひとりで,ある対象に向かい,研究や製作に励んだとする.
多くの場合何らか壁にぶち当たったときには,打開を図る.
 
きっと,誰か身近な詳しい師に尋ねるのではないだろうか.
(本やWebの記事などが先に来るとは思うが,そうでない人もいる)  
しかし,その師すらも打開が難しいと判断したとき,
その壁は超えられない物だと断定してよいのだろうか......
 
きっと,それは早計であろう.
もっと多くの専門家の意見を聞き,さらに検証する必要がある.
 
もしかすると,師と二人で出した結論が誤りであったとして,
それを自らが疑ってかからなければ,検証されることもなかろう.
仮に,それが正しくとも,確信が持てるかどうかは怪しい.
 
つまり,多くの師を持つことで,
自分自身の考えていることや,行動が正しいかどうかの,
検証をより正確に行いやすくなるのである.
 
もっと簡単に言えば「独り善がりが消滅する」のである.
これが,一人の師では問題になる,客観性の部分である.
 
もう一つ,優越感について.
 
これは,師が生物である限り,解消しないと思われる,
非常に厄介な問題点である.此方の問題の方が大きい.
 
ついた師が自分に知識や技術を伝授してくれるのが,
自分以下の存在を確かめる行為であり,優越感を得る道具として,
弟子を持っていたとしたら...... どうだろうか.
 
どうあれ何でも教えてくれるならどうでもええやん.
別によくね?と思うかもしれないが,非常に大きな問題だ.
 
もし,師が弟子の伸びを感じ,超えられるかもしれない!
と危機感を持ったとき,何が起こるだろうか.
 
優越感を得続ける道具として機能していた弟子が,
今,この瞬間に劣等感を生む敵になろうとしているのだ.
 
師は敵になる.
 
必死に,弟子であった敵の成長を阻み,攻撃を加えて,
芽を摘まねばなるまい.自分が一番優れているのだから,
高々,こんな彼奴らに負けるわけには行くまい.
 
しかし,師として弟子の出来栄えを評価される場面に遭遇すれば,
素晴らしいお弟子さんですね!と褒められなければならない.
 
「お前はできると思ってるかもしれないが,到底甘くて話にならない」
「これくらいのこと俺でもできるぞ.お前は何をやってもダメだ.」
「お前くらいできるなら負けるなんてありえないな」
「これで勝てるなら苦労しないぞ」
 
これくらいならまだしも
 
「学校の成績はどうした?」
「これができても友達が少ないんじゃなあ」
「技術があっても後輩の指導ができないんじゃマイナスだ」
 
などなど,関係のない部分での攻撃に転じるタイプもいる.
非常に厄介である.何せ,事実であれば関係なくとも,
非常に反論しにくい.とても厄介だ.
 
こういった場合に取るべき措置はただ一つ.
 
環境を変えることに他ならない.
 
打開できるのであればよいが,対話を以ってしても難しいなら,
もはやその問題は感情以外で解決することはできないのだ.
 
法やその他で決まりを作ろうと,湧き上がる感情は抑えられない.
絶対に感情の部分以外で解決することはできない.

そう考えると学校や会社って

学校や会社などは,手っ取り早く同じ目標を持った人間を集められる,
便利なシステムであることは,少し考えればわかるだろう.
 
しかし,こういったどうしようもない人間が紛れてしまうと,
優れたシステムを悪用し,優位に立とうとする人間の食い物にされてしまう.
 
各種ハラスメントを始め,学校業界では指導死,企業では過労死といった,
人命の蹂躙さえもたやすく起こってしまっている.
 
生きる上で一番大切なことはなんだろうか.
 
もし,ついた師が社会の役割を認識し,命を賭してでも,
その目標を達成することと言えば,それが正しいのか.
 
苦しい思いをし続けているときに,師が甘えと言えば,
それは甘えであり,自分のみの問題なのだろうか.
 
より信頼のおける師がいることこそ,何よりの助けであり,
安心して挑戦できる土壌を作りだすのではないだろうか.
 
だからこそ,
 
一人の話ばかりを聞いていてはいけない.