積極的にメモっていく姿勢

題名詐欺。更新頻度の低さが売り。

断腸の思いで北海道公立高校教諭(高校)を自己都合退職しました

題の通りです.
 
どんなことでも誰の役に立つかわかりませんから,ここに歴史を残しておきます.

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走りすぎて壊れたベアリング

教員になるまでを思い出してみよう

2014年の3月中旬,大学の卒業式を迎えました.進路が決まっていない状態で精神的に参っていたけれど,頑張って向かった式場を覚えています.周りが新しい世界に足を踏み出さんとしているときに,自分はお先真っ暗,実家からは罵詈雑言の嵐という中,ついに社会に放たれる証の学位記を手にしました.
 
北海道の教員採用試験は6月に一次試験,8月に二次試験,結果発表は10月後半というスケジュールで進んでいきます.したがって,二次試験に落ちた後に民間に切り替えようと思っても,入社式さえ終わっている体たらくで,リカバリーが利きにくい最悪のスケジューリングです.一次試験は比較的簡単に受かってしまうのもまた質が悪い.
 
教員採用試験の願書には「不採用であったとき,期限付き教諭を希望する」というチェックボックスがあり,どんな身分であっても教員をやりたい人はそこにしるしをつけます.正採用とは年金の種類が違ったり,期限ごとに退職金が出てリセット,途中で交代などなど悪く言えば使い勝手がいい駒使いの荒い中で働くことになります.自分はそこにチェックを付けずに願書を出したわけですから,不採用になった後に連絡が来るはずがありません.
 

......なかったんですが,3月の初旬に連絡がありました.「期限付きを希望するとチェックした人を全員あたったが人員が足りない」ということで希望しないとした人にも電話をかけているという話.大学事務を通じて学校から連絡が来ました.自分は高等学校(工業)の免許を持っていましたので,当然工業科からのオファーです.自分が5年も働くことになった当時の学校の校長先生は「やりたいことをなるべくできるようにするから,頼むから来てくれないか」と4月の欠員スタートを避けたいという旨をお話されました.
 
自分は情報技術や電子技術について教えたくて教員の道を目指しました.自分が高校生のときに,組み込み技術を競う全国大会で3位と詰めの甘さがさく裂して「自分は業界のトップにはなれないし,自分に教育のリソースを業界が割くなんて,なんて無駄なことなんだ」という考えに落ち込んでしまい,とても選手として,最先端の技術を追うエンジニアとして,やっていける自信がありませんでした.自分よりも若く,未来のある人間を1位になれない自分が育てて,もっとできる業界トップの人たちに高速でパスする役割を担うべきだと感じ,教職を目指しました.

教員としてのお仕事は何だったろう

配属は電気システム科というところで,希望が叶い「工業クラブ」という電気工事や電子回路,プログラミングなどが行える部活動的なものの担当になりました.しかし,技術的な面で自分がカバーできる範囲とかぶって何かできる先生はおらず,電子情報系の大会や技術技能指導はすべて自分が担当することとなりました.生徒の教育に必ずしも必要ないと自分が判断した,トップダウンの行事や地域貢献の名のもとに行われる無賃労働のやりがい搾取は頑張って突っぱねてきたのですが,あらゆる方法で覆そうとする力が働き,生徒の学習環境を快適にするためには自分がなんとかして,生徒にかかる労力を少なくする必要がありました.結果,行事や大会など年間6つの生徒引率出張,そのほかにも2から3回は出張がある状況でした(これに加えて部活とは無関係の出張が数回あります).しかし,これにもめげず様々な勉強会やイベントに生徒が参加できるように,自分もついていったり情報をSlackで提供したり力は尽くしました.また,これは自分の趣味なのですが,生徒自身が活動日を決める方針で部活をやっていましたので,土日祝はほぼフルで出勤です.朝は自分が9時くらいから夕方5時くらいまで,平日は夜の9時が基本です.そこから事務仕事をはじめます.

授業に関しては電気科ですから,電気機器や製図といったほぼ経験ゼロの科目もたくさんありましたが,最初の1年だけ情報技術基礎を持たせてもらえました.以降は電気基礎と電子技術が多かったと思います.しかし,この科目を決めるときには,産業教育手当の関係があって実習科目の時間数を調整したり,担任のクラスには必ず長い時間いくなど,制約が多く希望した科目を必ずしも持てないのが現実です.
 
分掌業務は生徒指導部(交通安全,ネットパトロール)→進路指導部(工業科就職,奨学金)→総務部*3(行事,PTA)を担当しました.このあたりは教科に関係のないところであるため,誰にでもどんな仕事が割り当たります.学年は3年副担→1年副担→1年正担→2年正担→3年正担という流れで来まして,宿泊研修が2回,見学旅行が1回割当たりました.前職は教員数が多かった関係で,副担にすら当たらない先生もいらっしゃいましたが,自分はずっと正副担に割り当たっていました.
 
最後の3年は正担任としてたった12名のクラスを受け持ち,毎日わけがわからないことも起きましたが,一人も欠けることなく卒業して,この4月から仕事人,学生としてのびのびやっています(やっているはず).電気工事の全国大会に出場する者がいたり,公立大学にAOで入れるだけの技術に熱中できる者がいたり,第一種電気工事士に関しては12名中8名取得しておりそれを生かした就職で比較的大きな企業に就職していったりと,数は少ないながらも長期的な視点で見ても悪い人生にはならないかな?と勝手に担任が思えるくらいには,よい高校生活を送ってくれたと思っています.
 
仕事を大きく分けると以上の部活動,教科指導,分掌業務,学級経営という感じでしょうか.これが並列で動きます.
 
自分のスタンスはあくまでも技術者になる人間の教育が軸にあるため,頭の中はこの順番通りの優先順位がついていました.それでもお金もらってるわけですから,きちんとやっていきたい気持ちはあって,自分のできる全力以上の力を尽くしてやってやろうというスタンスで3年間は駆け抜けたつもりです.
 
しかし,学校と言うのは社会のセーフティネット的な役割であったり,よりよい人格の形成に力点を置くべきであるため,本来は部活動や技術指導というのは人格の形成のために行われるべきであって,それが一番になってしまってはいけないのです.たまにある例で,地域のスポーツ少年団が勝利至上主義に走った結果,他人に危害を加えたり,人権を侵害してでも勝ちにこだわる人間が育ってしまうなど,悲しい事例も耳にします(それが現実起こっているかどうかはなかなか確認がしにくいところではありますが).もちろん,人間的にも安心してやりとりのできる子が育っている少年団もありますから,そこは大人のさじ加減なのでしょう.
 

転職に至った理由

まず,情報技術や電子技術について教えたいにも関わらず,北海道の工業高校は現時点で減少傾向にあり,さらに情報技術科を持つ工業高校は2019年時点で3校しかありません.電子情報工学科や理数工学科を含めたらもう少しありますが,これは消滅も時間の問題です.自分が一番教えたいと思った分野を教える人間の必要性を北海道は感じていないと判断し,自分は退職の方向に舵を切りました.
 
次に業務量の多さです.地域に貢献すべきというところや,生徒の成長のためならどんなことでもやってあげたい,という気持ちから仕事を増やす人は多いのですが,どうしてもこれをやめていこうという方針を打ち出せる人は多くありません.これに関しては,はやる気持ちを抑えて,本来すべきことに集中してくれとしか言いようがないのですが,こればっかりはなかなか責めにくいといのも実情です.
 
最後に生徒を駒扱いする人間の存在と業務にしか見えてない教員の存在です.無限に無賃で働く労働力としてどんなことにでも「高校生ががんばっています」という看板を使おうとする人種の存在は許しがたいものがあります.大人には「高校生の成長のために」と業務の圧迫を要求したり,高校生には「社会勉強になるから」と無賃労働を要求したりと,忙しい人たちです.また,生徒を業務としてしか感じていない教員ですが,とりあえずやれと言われたから教科書をやってんだという姿勢であったり,クラスを持っても特にこれといったアプローチもせず,どんな状態になっても放置という人もいるわけです.
 
確かに自分も教育中の教育をしたくて教員になったわけではありませんが,さすがにこういう人に放置されて,エネルギーを持て余した高校生を見続けるのは,厳しいものがありました.
 
次の仕事は日本国全体にかかわるため,業務内容が職場の名前を冠した法律で定められているようです.情報技術で不幸になる人を減らすための非常に社会的意義のあるお仕事だと,現状までで把握しています.今のところは上流工程っぽい感じで,現場主義の自分はモヤっとした感じもあるのですが,1サイクル終えてみないとわかったもんじゃないでしょう.
 
......いつもの悪い癖で長くなり過ぎたので,この辺にしておきます.ちなみに,ようやく退職金が入ってきましたが,全く使ってお祝いをしようなんて思える金銭状況ではなく,新生活に必要な費用を支払い続けるのでした.
 
往生際が悪いですが,本当に最後に.いい仕事でした.続けたいと思う気持ちは決して小さくはありませんでした.それを超えて転職したのだから,今まで以上に頑張りたい.