積極的にメモっていく姿勢

題名詐欺。更新頻度の低さが売り。

"言語化能力" は単一の能力ではない

ここ最近,わかりあいたい,力になりたいと思う場面で「すごい言語化能力」というフレーズと共に,どこか距離を取られているかもと勝手に感じてしまい,心悲しくなることが何度かありました.もうマジ無理・・・
 
そんなさなか "言語化能力" を身につけたい,どうやっているんですか,と訊かれる場面が幾度かありました.いろんな場面ですごいと言われ,ここでも高いと言われた "言語化能力" がなんなのかをことばにする絶好のチャンスです.......絶好のチャンスだったんですが,自分では全く掴めておらず,ことばにすることができませんでした."言語化能力" が高いはずなのに,その "言語化能力" とやらを言葉にできなかったわけです.
 
もしかすると相手からは,手の内を明かすまいとして喋る気がない,力になるつもりがない,と思われてしまったかもしれません.自分としては頑張りたかったものの,そんなすれ違いがあるのかもしれないと思うと,また勝手に悲しくなってしまいます.
 
なんだかこれがつっかえてしまって,いろいろなやるべきことも手につきません.旭川は秋の様相を呈しており,長袖を着ようか着まいか悩む時期に差し掛かっているため,ここで悪いループを断ちにいかないとオシマイになりそうです.そんなことから,いろんなことを見なかったことにして,この記事を書くことにしました.
 
最終的にめざすのは「"言語化能力" は単一の能力ではないため,ひとまとめに考えないほうがよい」という主張を伝えることです.

 

前提の確認

まず「能力」とは,なんらかを成し遂げる力のことを言うようです.
 
次に「言語化」です.ことばで表現し,伝達可能な状態にすることを言語化と呼ぶようです.
 
つまり "言語化能力" とは,ことばで表現されていないものをことばで表現する力のことのようです.
 
ひとつ疑問が湧きました.「化する」と,なんらかの言葉の後ろにつけることで「そうでなかったものをそれにする」という意味になるならば「言語でなかったものを言語にする」と解釈してよさそうに見えます.「ことば化する」の方が,市井で使われている "言語化" の意味にほど近いのかなとも感じました.
 
でも「ことば化」だと,ことばになればいいのかという話で,なんらかの現象や感情に思いつきのテキトーな名前をつけても「ことば」になるから,バグを踏むのではないかと思いました.
 
結論からいうとこれは杞憂で,名前をつけるためには名前がついたものが何かを説明できないといけないので,まあいいのかなと思いました.というのも,仮に名付け親しか判断できなかったとしても,これはそれなのか,ということをことばで訊かれて,Yes or No を回答する羽目になりますから,結局外の人間によって「ことば化」されるわけですよね.
 
これ結構大事な話で,誰か一人が正確に判定できる状態になれば,ことばにできるということです.ただ,ことばになったものが正確かどうかは微妙で,ここは頑張りが必要です.正確に判定できる前提に立てば,無限個の質問をぶつけさえすれば,かなり解像感高く,ことばになっていくはずです.初期段階は拙くてもよいのでたくさんの質問と対話を通じて輪郭を掴み,その周辺で質の高い質問を捻り出して細かな調整をしていくことで,かなり正確にことばで表現できるはずです.
 
正直もうこれをうまくやれる力を "言語化能力が高い" としてしまってもいいのですが,じゃあうまくやるために何を頑張ればいいんだという話をしないといけません.どうすれば "言語化能力" が高くなるんですか,という質問の回答のためにも,もう一段 "言語化" を頑張ってみます.これを訊かれたときに瞬時にことばにしたかった...... (ほんとうに "言語化能力" が高かったなら造作もなかったはずでは?)
 

"言語化能力" が高い状態をどう作るか

自分がふりかえってみると,必要なものは大きく「日常的に鍛えられる能力」と「ことばにする際にほしい情報」の 2 つに分類できるのかなと思いました.
 

日常的に鍛えられる能力

語彙力

ことばにするために頼るべきは,すでにことばで表現されていることです.すでにことばで表現されているものに頼っていかないと,極めて原理的なことから表現を積み重ねる羽目になり,長い道のりをひたすら辿るような説明しかできません.
 
単語は意味のモジュール化という感じで,単純な意味しか含まないものもあれば,解釈の余地がある複雑な意味を含むものもあります.関数の凝集度みたいなもので,解釈のぶれない簡単な単語だけでは冗長と感じられる場面もあるし,かといって難しい単語をつっこんでお互いの解釈の一致を "信じる" のも危ないし,ほどよい単語を選ぶ力も必要になります.
 

論証構造の把握力

大学生の時に受けた哲学科の授業が自分の力の大半を占めています.そのときに受けた授業の資料ではないのですが,以下の資料が大変わかりやすかったので,ぜひ見てみてください.

www.slideshare.net

あとは,頭の体操としてこの本も面白かったです.

www.kinokuniya.co.jp

つまるところ,掴みたい事象を対象に,ひとつひとつ前提となる情報を分解していって,前提となることが何なのか,そしてどういった推論に基づいて結論を導いたのか,ということを説明できるようにしたいです.帰納アブダクションで表現したい事象を理解して,演繹で検証するといった流れでしょうか.補足資料として以下の記事をリンクしておきます.

experimentblog.net

本当にマジの余談ですが,この論証構造をほどよくめちゃくちゃにして不思議な結論を導くと,いわゆるツッコミどころが生まれていい感じに笑いをとれるので活用しています[独自研究?].自分は割と問いかけの形式で話題展開をしがちなので,ツッコミやすい詭弁にあたるでしょうか.
 
でも実は笑い話ではなくて,意図的に誤った結論に到達させる詭弁とは異なり,みんなが正しいと思い込んで意図せず誤った結論に落ち着いてしまう,誤謬に至ることもあります.こちらの誤謬一覧のとおりで,割といろんな落とし穴から誤謬に至ってしまいます.パッと理解できそうなことでも,じっくりと論証構造を把握しようとする姿勢はバカにできません.
 

批判力

以下の記事がわかりやすかったので,こちらもぜひ見てみてください.

shakelog.com

自分の記憶では,記事のとおり前提と推論がそれぞれおかしくないかどうかのチェックに加えて,そんな前提を持ち出すのはおかしいという点と,その結論に納得がいかないという点の 2 点を加えた 4 点のチェックポイントを設けて,自分の考えをぶつけなさいと習った記憶があります.あくまでも記憶なのでこれが正しいかどうかは不明です.
 
自分の主張や気持ちと対象に齟齬があったときに,先の論証構造を把握すれば,どこが自分の考えることとズレがあるかを把握できます.そうすると,そのズレに議論を集中することで,わかりあっている点と話し合いたい点をより正確に分離できるはずです.
 

情報収集力

表現したい対象に関連する情報が少ないと,論証構造の把握も批判も難しいです.それにせっかく語彙力が高くても,あてはまりそうな単語が本当にぴったりなのかを検証できません.より多面的,多角的に具象に向かうことが大事で,ときに自分が理解し難い立場や気持ちからの視点で物事を見る必要があります.
 
個人の体感として,この段階で傷つくことも少なくないなという実感があります.でもそれを乗り越えないと,互いの主観からでは見えない論証構造に基づいて話が進められて,議論が平行線になってしまうことも少なくないです.
 
簡単にいうと,そんなのあたりまえじゃんとか,そんなこと言ったらおしまいじゃんとか,そんな悍ましいことを考えてたの...... とか,そういうことに触れないままだと「理解できない」以外の発話ができなくなってしまいます.常識や欲求など,深い位置にいる前提まで潜っていくときにこの観点が必要になるなという感触です.やっぱりつらい段階だと思います.
 

比喩表現力

ここまでことばを尽くし,論証構造も把握し,批判すべき点を見つけ,必要な情報が整っていても,なかなか伝わらないことも少なくありません.そこで助けになるのは,すでに存在している事象です.語彙力が助けになるように,たくさんの類似事例を知っていることで,より近い事象で比喩が可能になります.
 
自分はほとんど映画,ドラマ,アニメなどを見ませんし,小説等も読みませんので,その類からの比喩は使えないのが弱点です.これが教養ってやつか...... という気持ちです.ただ翻って,それらを見ていない人にも伝わるような比喩,たとえば動作や生活に関係した構造の事象を持ち出すことが多くなるため,わかってもらえることが多いように感じています.複雑な文脈の共有を必要としないのは,脳への負荷も小さく済みますし,身体と紐づいた類似事例をサッと持ち出せるのは強みかもしれません.
 

ことばにする際にほしい情報

前提となる情報

間違いなくそうだ,と言える情報を集めます.そのこと自体の是非については置いておいて,誰が見てもそうだと言えることを集めます.たとえば,契約書を交わしたとか,機材が足りないとかのモノのことから,わからないことだらけで"追い詰められた"とか,機材がなくて何もできないと"思った"とか,個人の感情なども,本人が言えばほとんどの場合疑いようのない事実だと思います.
 
たまに,リフレーミング後の状態で情報を出したものの,実は元々はかなりネガティブに受け止めていて,ネガティブな感情に基づいて行動していた,なんてこともあります.そのため,どんな情報なのかに関わらず「いつ時点の情報なのか」というのも合わせて把握するようにしないと,誤謬を招く可能性があるため注意が必要です.
 

観察から得られる情報

ある程度わかる範囲で前提情報を把握した上で対象を観察します.誰の目にも明らかな事実を集めていきます.この観察から知らなかった前提が明らかになることもあります.ここで事実の量がどれだけ増えるかがポイントです.事実は動きませんので,ことばにするときの基礎の強さに影響します.ここが甘いと,焦点のあっていない "言語化" でイマイチということになるのかなと思います.
 

推測できる情報

前提情報や観察から得られた情報を元に,帰納アブダクションで推論を進めます.ここで得た結論を仮の情報として,本当にそうなのか検証を進めます.いまは "言語化" が最終目標なので,導かれた結論を元に説明をおこなって,どれくらいの適合度なのかがわかれば,これで十分なのか,ことばで拾いきれていない情報があるのか,モヤがかかっているような感じでもっと情報を集めてシャープにしたいのかなどなど,よりよいことばを探っていくことになります.
 

"言語化能力" は単一の能力ではないため,ひとまとめに考えないほうがよい

ここまで読んでいただいたのであれば伝わったかなと思いますが,"言語化能力" はめちゃくちゃたくさんの要素からなる概念だと言いたいわけです.データ群に対して主成分分析をかけるのと同じです.自分が挙げた 5 つの力(つまり 5 次元)で評価される能力に対して次元削減をかけて生み出されたのが "言語化能力" という軸であり,単一の能力に支えられる "能力" ではないですよね,ということを主張したいわけです.
 
これらより,鍛えるべきは,語彙力,論証構造の把握力,批判力,情報収集力,比喩表現力であり,それらの力を使って,前提となる情報,観察から得られる情報,推測できる情報を如何に上手に組み合わせてことばにできるかを "言語化能力" と呼ぶため,この総合力に突然アクセスしようとしても,どうしたらいいのかわからず路頭に迷うのは,それはそうという話だと思います.
 
暗かった外もすっかり明るくなりました.この記事が "言語化能力" のことばに苦しめられている人の助けになることを祈り,筆を置きます.